『老子』の中に「無用の用」という概念がある。
一見無用とされているものが、実は大切な役割を果たしていることを意味し、『荘子』にも同様の主旨の話が載っている。
恵子「あなたの話は役に立たない」
荘子「無用ということを知って、はじめて有用について語ることができる。大地は広大だが、人間が使っているのは足で踏んでいる部分だけである。だからといって、足が踏んでいる土地だけを残して周囲を黄泉まで掘り下げたとしたら、人はそれでもその土地を有用だと言うだろうか」
恵子「それでは役に立たない」
荘子「一見役に立たないように見えるものが実は役に立っているということが、はっきりしたであろう」
有用だと思っていたことが実は無用で、無用だと思っていたことが意外にも有用だったということは、実際よくあることだ。無用の中からこそ有用を見いだせることも少なくない。
何しろ、有用と無用の基準は人それぞれであり、その基準は自分仕様であるべきだ。
有用か無用かを決めるのは、他ならぬ自分自身なのだ。
これこそが「無用の用」という概念の前提であると考えているが、他者の声がソーシャルメディアなどを通じて必要以上に大きく聞こえてしまう社会においては如何せんあやふやになりやすい。